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10月 蘇れ アジアのシジュウカラガン!

一度は絶滅を宣告されたシジュウカラガンを蘇らせた人たちがいます。
日本雁を保護する会会長の呉地正行さんに「思いが道を開く」の精神で歩いた長い道のりのお話をお聞きしました。

日本雁を保護する会会長の呉地正行さん(2010年9月 エカルマ島 撮影/日本雁を保護する会)
日本雁を保護する会会長の呉地正行さん(2010年9月 エカルマ島 撮影/日本雁を保護する会)
-そもそもシジュウカラガンはどうして絶滅寸前になったのですか?
呉地

 シジュウカラガンは、かつてアリューシャン列島と千島列島の島々で沢山繁殖していました。20世紀初頭から中頃、この地に毛皮をとるためにキツネが大量に放されました。地上に営巣するシジュウカラガンは、夏に翼の羽が一斉に抜けて飛べなくなる時期にキツネに襲われ、1938年には一羽も見られなくなってしまいました。越冬地の日本でも1935年以降は、飛来が確認されなくなったことから、シジュウカラガンは地球上から絶滅したと考えられました。

シジュウカラガン(撮影/戸島潤)
シジュウカラガン(撮影/戸島潤)
 

 ところが、1963年に、米国の研究者によりアリューシャン列島の小島で奇跡的に生き残った200から300羽ほどの群れが発見されたのです。また、1964年には、宮城県の伊豆沼で1羽のシジュウカラガンが再発見され、日本へ飛来する群れも絶滅していないことがわかりました。

 

 一方、アリューシャン列島の群れが越冬するアメリカでは、日本より先に保護増殖計画が進んでおり、政府内にシジュウカラガンの回復チームを作り、アリューシャンの島で発見された鳥の一部を捕獲し、人工繁殖させ数を増やし、同時にかつての繁殖地であった島でキツネの駆除などを開始し、着々と成果を上げていました。

-呉地さんたちの活動は、いつ頃からですか。
呉地

 1983年からですね。昔の写真を見ると、鳥の歴史よりも人の歴史がわかるのではないか、という感じです(笑)。

 
日本雁を保護する会初代会長の横田義雄先生(左)(撮影/須川恒)
日本雁を保護する会初代会長の横田義雄先生(左)(撮影/須川恒)

 初代会長の横田義雄先生を中心にはじまった活動なのですが、彼は、「三ガンの横田」と呼ばれていました。それは、眼科医の「ガン」、雁の「ガン」、そして頑固の「ガン」の三つで、「客観的な状況と主観的な状況は違う!」というのが口癖でしたね。

 

 そもそもの活動のきっかけは、1980年に日本で初めて開催された国際水禽調査局の国際会議に横田会長と私たちが出席し、米国魚類野生生物局の代表者に直談判をしたこと。「日本でも、シジュウカラガンの取組みをしたい。協力してください」と訴えたところ、「協力しましょう」と快諾。国際会議の良いところですよね。

-国際会議で直訴というのは、すごいですね。
呉地

 客観的にみるとすぐに活動が開始できる状況ではありませんでしたが、主観的な状況は違いますから(笑)。

 

 アメリカと日本に渡ってきていた亜種は同じだったので、「シジュウカラガンを貸してやる」といわれたのですが、何しろ受け入れ先がない。当時の仙台市市長が、横田会長の知り合いだったのでこちらも直訴。長靴でどかどかと市長室に押しかけて、「シジュウカラガンの受け入れ先を仙台市につくってください」と相談しました。

 

 思い続ければ道が開けるものですね。翌1981年には、仙台市八木山動物公園に繁殖用施設(ガン生態園)が完成し、1983年には、米国から日本へ繁殖用の親鳥が届き9羽が八木山動物公園のガン生態園で回復計画のために飼育されることになりました。

八木山動物公園のガン生態園(撮影/日本雁を保護する会)
八木山動物公園のガン生態園(撮影/日本雁を保護する会)
-スタートラインですね。
呉地

 八木山動物公園は野生のガンの傷病鳥管理の知見はあったけれど、シジュウカラガンは野生にもどさないといけないわけで、そのノウハウがなかった。その研修のためにアメリカのノースダコタ州にある米国魚類野生生物局の研究センターに、動物公園の飼育係の方と同行して、向こうでガンの飼育や回復事業に関わっているファザー・グースとよばれている、リーさん(Dr.Forrest Lee)に師事しました。

-ガンのお父さんとは、頼もしいですね。
呉地

 すごい情熱でガンの保護増殖を進められていました。私も情熱なら負けない。リーさんにお願いしてサン・グース(ガンの息子)となりました。

- あ!! それで呉地さんのメールアドレスには、ガンの息子「サン・グース」と入っているのですね!
呉地

 そうそう(笑)。1985年にファザー・グースの指導の甲斐あって、飼育下の繁殖に成功しました。このシジュウカラガンたちを本来は繁殖地で放すのが良いのですが、繁殖地はソ連領の千島…。当時は政治の壁があって、誰に聞いても行けるはずはないと。 そういうなかで、留鳥ではなくて、ちゃんと渡りをする鳥としてシジュウカラガンをとりもどしたいとずっと関係者で考えていました。

ファザー・グース(右から2番目)とサン・グース(左端)。呉地氏の息子さん(中央)は、リー氏をグランドファザー・グースと呼ぶ(1997年 撮影/日本雁を保護する会)
ファザー・グース(右から2番目)とサン・グース(左端)。呉地氏の息子さん(中央)は、リー氏をグランドファザー・グースと呼ぶ(1997年 撮影/日本雁を保護する会)
 

 そこで次善の策として、飼育下で生まれた幼鳥を伊豆沼などの国内のガン類の越冬地や中継地で放鳥し、野生のガンと一緒に北の繁殖地に渡らせる方法をとりました。これがなかなか難しくて。放鳥すると野生のガンやハクチョウと行動を共にするようにはなるのですが、なかなか一緒に北に渡らない。いつ北に渡るか、渡るか、と期待して見ているのですが、マガンが渡った後にシジュウカラガンだけが残っている。

-渡らなかったのですね。
呉地

 なんで渡らないんだ~。一緒に渡ってくれよ~、という気持ちで、色々な方法を試すうちに5年以上が経ちました。

-その長い年月を試行錯誤するのは、厳しいですね。
呉地

 なかなか難しいなとは思っていましたが、ダメだとは思わなかった。ダメだと思ったら終わっちゃいますしね。
 このシジュウカラガンを日本から失いたくない。けれど、具体的な方法が見当たらない。悩みました。

-どこに転換期があったのでしょうか?
呉地

 1989年にカムチャツカからガンの共同調査を行っているゲラシモフさん(Dr.N.Gerasimov)を初めて日本に招待し、八木山動物公園のシジュウカラガンの前で「この鳥の回復事業を一緒にやりませんか」と提案したところすぐに「やりましょう」と返事がもどってきました。
 1990年にソ連(マガダン)で行われたソ連科学アカデミー北方生物問題研究所主催の国際会議の際に、シジュウカラガンの回復計画実施について共同提案を行い、その内容が会議の決議事項に盛り込まれたのです。

 
ガン類の国際会議。呉地氏は手前右(カリフォルニア州 1992年 撮影/日本雁を保護する会)
ガン類の国際会議。呉地氏は手前右(カリフォルニア州 1992年 撮影/日本雁を保護する会)

 しかも1991年にソ連が崩壊し、1992年に米国カリフォルニア州で開催されたガン類の国際会議の時に、日ロ米のシジュウカラガン回復チームのメンバーが集まり議論した結果、繁殖地の千島列島で放鳥し、日本へ渡るシジュウカラガンの群れの回復を目指す日ロ米3カ国の共同事業が実現しました。

-すごい!!
呉地

 ここからも大変だったのですけどね。1990年からシジュウカラガンを日本の越冬地に導く鳥を探しました。日本へ渡ることが分かっている「ヒシクイ」というガンを選定し、ロシアの人たちとカムチャツカ半島でヒシクイの調査をはじめました。ロシアはその頃、生きていくのが精一杯な時代。共同研究施設のロシア科学アカデミーの前庭はジャガイモ畑になっていました。給料は半年間出ていないという。ああいう状況で、このプロジェクトを遂行できたのは、ロシアにもシジュウカラガンに非常に強い思いを持ったゲラシモフさんという人がいたから。この方とは限られた資金の中でロシアでの調査を長くご一緒しました。

ロシアのゲラシモフさん
ロシアのゲラシモフさん(撮影/池内俊雄)
 

 当初、カムチャツカ半島南部で営巣するヒシクイを仮親として、シジュウカラガンの幼鳥と仮親家族をつくり、放鳥すれば日本まで渡ると考えていたのですが、ヒシクイの巣を発見する作業が予想以上に難しく困難であることがわかりました。
 一方、ゲラシモフさんが所属していたロシア科学アカデミーにより、1992年9月に、カムチャツカ州にシジュカラガンの飼育施設が完成し、米国と日本から繁殖用の親鳥が提供され、飼育個体は増えていきました。

 

 ここでも思いが道を開いていった。みんなでシジュウカラガンを蘇らせたい、という思いだけで動いていったプロジェクトでした。

-カムチャツカの環境は、いかがでしたか?
呉地

 カムチャツカの湿地は、ミズゴケで被われていて、移動しようにも足が埋もれてしまうような場所が沢山ありました。鳥からみれば安全であるということなのですがね。食料は現地調達。サケ、ベリー類など…これをザラメと一緒に食べるととても旨いんです!

カムチャツカの施設の繁殖個体(撮影/池内俊雄)
カムチャツカの施設の繁殖個体(撮影/池内俊雄)
 

 周囲何百キロに誰もいない繁殖地のキャンプ生活で、「生きる力」はずいぶん鍛えられました。ある日、通信に必要な発電機が壊れてしまい途方に暮れましたが、パイプ椅子を切ってパーツにしてエンジンを動かしました。道具がないからできないという発想にならない。今でもあの成功体験は大いに役立っていますよ。必ず道は開けると。

-最終的に、カムチャツカの施設で繁殖させた個体をかつての繁殖地だった北千島のエカルマ島に運び、放鳥したのですね。
呉地

 日米ロの関係者が、放鳥を行う島について調査、協議を行い、生息に有利な自然環境が維持されており、キツネのいないエカルマ島が最適という結論に達し、放鳥が開始されたのが、1995年のことです。その後2010年まで放鳥事業は続きますが、それができたのは仙台市八木山動物公園の人材と資金援助があったからです。1995年から2000年に、のべ119羽を放し、そのうち5羽が日本へ飛来しました。その際に、若い鳥を大きな群れで放すと渡ってくる可能性が高いことがわかってきました。

エカルマ島(撮影/池内俊雄)
エカルマ島(撮影/池内俊雄)
 
シジュウカラガンの渡りのルート
エカルマ島で放鳥したシジュウカラガンの渡りのルート
 
エカルマ島での放鳥(2010年9月 撮影/日本雁を保護する会)
エカルマ島での放鳥(2010年9月 撮影/日本雁を保護する会)

 2002年から2010年の本格的な放鳥事業では、399羽の若い鳥を可能な限り大きな群れで放しました。途中、成果が上がらないように思われた時期もありましたが、2008年に入って日本に飛来する家族群が確認されるようになってから、数は倍々になってきました。100羽を超えた翌年は238羽、その次ぎは408羽と。去年の冬は少なくとも677羽を数えたので、2014年度は1000羽を越えそうです。こんなに早く成果が上がるとは思っていませんでした。

 

 空を覆うシジュウカラガンの群れと再会でき、言葉では言い尽くせない思いが込み上げてきます。故人となった横田先生やリーさんにもこの光景を見せたかったなあと心底思います。

-すばらしいですね。1,000羽は個体群を維持するための最低数と言われていますね。
呉地

 これからは、越冬地の環境が問題になってくるでしょうね。今は、他に選択肢がないから宮城と新潟に集まっていますが。数が増えても、生息地が増えないと一極集中してしまうので、どう分散化させるのかが次の課題です。

-確かに東北の越冬地の湖は超満員ですね。
呉地

 日本では、この100年で61%の湿地が消えました。宮城県では100年で92パーセントが消えてしまったのですよ。
 ところで、「ふゆみずたんぼ」という言葉を知っていますか?

-冬に水を張っている田んぼですよね。
呉地

 この言葉、読んで字のごとしで分かりやすいでしょう。この言葉が生まれたのは、ひょんなことからでした。

 

 2002年、スペインのバレンシア市でラムサール条約第8回締約国会議が開かれました。私も参加し、「お米とオレンジ」というエクスカーションでバレンシア地方の湿地帯を巡りました。あそこはパエリアが名物料理ですから、お米をつくります。11月だったのですが、刈り入れの終わった田んぼに水が満々とたたえられ、そこに沢山の水鳥たちが集まっていました。
 現地の人に聞くと「11月1日になると、ペレローナがはじまる」という。ペレローナとは、冬のあいだも田んぼに水を張る農法のことで、その名前の由来は、白い馬と名付けられた美しい湖の湖畔にあるペレーロ村にちなんでいるという。

 

 なるほど。日本にも、ペレローナに匹敵するような心に届く大和言葉が欲しいと思いました。

-日本でいう「冬期湛水(とうきたんすい)」ですね。
呉地

 その言葉、難しいですよね。日本にも江戸時代から地方によっては、冬の田んぼに水を張ることで、栄養を蓄える農法はありました。それに、かつてはわざわざ水を入れなくても、水はけの悪い田んぼがありましたし。今は畑にも使えるようにと乾田化してしまって、特に太平洋側は冬はカラカラ。そういうなかに一箇所でも水場があると、砂漠のなかのオアシスのように鳥たちも集まってきます。そういう環境に特に水鳥たちは飢えているのです。

 

 帰国してから、田んぼの生きもの関連のシンポジウムの終了後、みんなで飲みに繰り出したときに、たまたまペレローナの話をしました。そのメンバーのなかに、コピーライターがいて、「言葉というのは、何も知らない人が耳にしてわかりやすく、言いやすいものでないといけない」という。

 

 それで、キーワードをみんなで、ああだこうだと考えて、コピーライターがまとめ、ついに「ふゆみずたんぼ」、この言葉が生まれました。

ふゆみずたんぼを訪れたマガンの群れ(撮影/鈴木康)
ふゆみずたんぼを訪れたマガンの群れ(撮影/鈴木康)
-今では、市民権を得ている言葉ですね。当初、ふゆみずたんぼは、農家の理解を得られたのでしょうか。
呉地

 農家にとっては冬の田んぼは乾かしておくのが常識なので、その反対に水を張ることには強い抵抗がありました。また多くの農家はガンは害鳥と考えていたので、こういうお話を持っていくと必ずといっていいほど反対する方がいます。反対される方のところへは、何度も足を運び、これが農業にも大きな恩恵をもたらすことも丁寧にお話します。すると最後には決まって一番の理解者、協力者になってくれます。思いが伝わり、目的が共有できれば立場の違う人たちと仲間になることができます。

 

 話は変わりますが、生物多様性も大事ですが、多様な人の集まりはもっと大切。何かを成し遂げるには、そこからいかに大きなうねりを作れるかが肝心で、同じゴールを共有することで、いろいろな力を発揮しやすくなります。人間、面白いと思ったことは力を出してやりますが、仕事ではそこまでやらないでしょう。

-会の活動は、仕事ではないのですか?
呉地

 みんな他に職業があるので、土日に活動しています。どっちが熱心なのかは知らないけど(笑)。

 

 仕事にしないのは、形式が先行してくるとそれに縛られるから。やりたいところに力を注ぎたいという思いがある。現在400人ぐらいの会員がいて、ガンの情報は関係者のメーリングリストが立ち上がっているので、どんどん集まってきます。ネットワークはかなり有効な道具になりますね。

-会のこれからの活動としては?
呉地

 全国に40から50箇所しかないガンの生息地をしっかり守りその数を増やすことが最大の課題なので、開発問題が起きてからアクションというのでは間に合わない。まず第一に湿地の開発を予防することを考えていかないと。そのために1994年にガン類渡来目録をつくって、ガンの生息地のある自治体に配布しています。知らないことから湿地が開発されてしまうことも多いので、湿地の重要性を周知するこの目録は開発を予防する道具として、役立っています。
 「ふゆみずたんぼ」にしても、鳥のためではなくて、農業のために水を張りましょうと伝えていきたい。ガンは環境の変化に敏感な鳥ですから、ガンに選ばれた田んぼは健全の証なのです。そういうことを農家の方に理解してもらい、農家の人はガンを利用した農業を行い、結果的にそれが鳥たちにとっても居心地がよい場所を提供することになる。

-最後にシジュウカラガン、その魅力を
呉地

 私は神奈川の平塚市出身で、大学進学で東北に来ました。もともと鳥は好きだったのですが、伊豆沼にはじめてガンを見に行き、とりこになりました。

 

 文字通り雁首揃えて1,000羽はいましたね。そっと近づいていったら、一斉に首を上げてこっちを見る。緊張感。さらに近づいていくと、「飛ぼう」と首を振る合図をして、あたりを埋め尽くす羽音と鳴き声とともに一斉に飛び去っていきました。

 
群れで飛ぶシジュウカラガン(化女沼 撮影/池内俊雄)
群れで飛ぶシジュウカラガン(化女沼 撮影/池内俊雄)

 昭和46年まではマガンとヒシクイは狩猟鳥だったので、その昔ガンを撃った人の話を聞くと、ガンを一羽撃つと仲間が集まってきて、撃たれたガンを翼で起こして連れ帰ろうとするという。また、一羽でも飛ぶ意思がないガンがいると、その家族の群れは飛びません。そのたぐいの話はあちこちで聞きます。そういった行動学にも魅力を感じますね。

 

 余談ですが、東日本大震災の後に、我が家の壊れた蔵を整理していたら、なんとアオギツネの襟巻きがでてきました。20世紀初頭に千島列島で毛皮のために放されたあのキツネです。「こいつがシジュウカラガンを食ったのだな」とつくづく眺め、その不思議な縁に驚きました。

-呉地さんは、どこまでもシジュウカラガンとの縁が深いのですね。今日はありがとうございました。
 

(聞き手/一般財団法人自然環境研究センター主任研究員 中山文仁)

シジュウカラガン観察 インフォメーション
特徴の白いほっぺを探そう(撮影/戸島潤)
特徴の白いほっぺを探そう
(撮影/戸島潤)

 シジュウカラガンは、10月頃に北海道十勝経由で本州に渡ってきます。伊豆沼周辺では11月以降から観察でき、とくに1月が飛来数も多く観察がしやすくなります。宮城県では有名なのは蕪栗沼ですが、化女沼のほうが近くで見られます。渡りの時期だったら3月初めの大潟村の八郎潟干拓地。水田で採食する大きな群れが見られます。運が良ければハクガンの群れも同時に見られます。4月には北海道に渡るため、十勝川の下流域が見やすくなります。
 車などを農道に止めて観察するときには、農作業の邪魔にならないように注意しましょう。また車でのあぜ道への進入は、路肩を壊す危険があるので行わないでください。

新設!「水辺の大型鳥類保護部門」

 今月のトピックスで取り上げたシジュカラガンの保護増殖は、長い年月をかけて見事に成功を収めました。
 サントリー世界愛鳥基金は、1991年から2012年にかけて断続的に「日本雁を保護する会」を応援してきました。
 こうした水辺の大型の鳥類であるコウノトリ・トキ・ツルなどの保護、生息環境の整備などの活動を応援する助成部門が新設されました。
 日本雁を保護する会会長の呉地正行さんに続いて、「思いが道を開く」ために、門を叩いてはいかがでしょうか。

http://www.koueki-suntory-aityou.jp/bosyuu/index.html